総合トップ・やすらぎへの道のり

毎日治療をしていて、
「先生はなぜこの仕事をするようになったのですか?」
と聞かれることがあります。

やすらぎの里にいたるまで、いろんなことをしてきましたが、
今考えるとすべてのことがつながっていると感じます。

話せば長くなりますが、
私がどのようにしてやすらぎの里を開設することになったのか、
その経緯をご紹介させていただきます。

やすらぎへの道

「何かもっと」

私は岩手県の三陸の海岸沿いの小さな村で生まれました。

実家は小さな食堂を営んでおり、それと合わせて、
自分たちで食べるための米や野菜を作っていました。

小さい頃の私は、
そんな田舎での生活を決して喜んでいたわけではなかった。

むしろ、できるだけ早く都会に出て、
都会での生活に憧れを抱いていました。

高校を卒業するとすぐに東京のスーパーに就職し、
憧れだった都会の生活を始めた。

もともと食べ物に興味があったので、魚や果物、
野菜を扱う仕事は楽しかった。

そんな仕事をしているうちに、食べ物の素材を選ぶ
プロとしての目が養われた。

食べ物を扱う仕事はそれなりに楽しいものではあったが、
しだいに、もっと何か違うことがやりたくなった。
とはいっても特にやりたいことがはっきりしない。

なにかもっと自分が打ち込める何かがあるのではないか。
もっといろいろなところを見てみたい。

そうして、自然に興味が海外へと向かい始めた。


「オーストラリアでの暮らし」

半年くらいの間に日本脱出の準備を進めて、
23歳の春に5年続けた仕事を辞め、
妻の文枝と一緒にオーストラリアでの海外生活を始めることになった。

今の20代では珍しいかもしれないが、
私の場合その時が海外どころか
飛行機に乗るのでさえも初めての体験で、
全てが初体験、ドキドキ、ワクワクの連続だった。

始めの一ヶ月間はイタリア人夫婦の家庭にホームステイしながら、
現地の英語学校に通って、というおきまりのコースで、
オーストラリアの生活になじんでいった。

英語学校が終わる頃、シドニーにある日本食レストランの
アルバイトを見つけて働き始めた。

以前の仕事で食べ物の知識があったのと、
料理が好きだったこともあり、板前さんに気に入られて、
寿司の握り方も教えてもらえた。

一緒に働いている仲間も日本を飛び出してきただけあって、
個性的な人たちで、それを仕切っている板長さんは
それに輪をかけたような個性の持ち主だった。

毎日仕事が終わると、残り物をつまみに飲んで、
語って、騒いで暮れていった。

オーストラリアの旅

そんな仕事を半年くらい続けて、バイト代がたまったところで、
ワーゲンの古いキャンピングカーを買い、旅に出ることにした。

グレートバリアリーフの島でシュノーケリングをしたり、
砂漠の真ん中でキャンプをしたり、ジャングルの中の温泉に
入ったりと毎日があっという間にすぎていった。

そんな旅を3ヶ月位続けて、仲間の住むシドニーに帰ってきた。

しばらくの間、旅の疲れと、次の目標が定まらなくて、
少し無気力になっており、昼間で寝て、それから海を眺めながら
ビールを飲んで、夜になるとみんなと話して、
夜遅く寝るというような毎日を送っていた。


「日本へ戻る」

そんなとき、家から友達のアパートに電話がかかってきた。

5歳年下の弟が家で暴れたり、引きこもったりで
親だけで面倒みるのは大変そうだから、
すぐに帰ってきてくれ、という祖父からの電話だった。

これは普通ではないなと思い、文枝はオーストラリアに残したまま、
取りあえず自分だけすぐに帰国することにした。 

久しぶりの日本では、重苦しい現実が待ちかまえていた。

弟は中学のときにいじめにあい、高校に入っても同じグループに
いじめられて、高2頃から学校を休むようになっていたようだ。

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久しぶりにあった弟は暗くうつむいて、
いかにも病的というような姿だった。

それからしばらく家族で何とかしようとしたが、
あまり本人の状態に変化は見られず、結局、
精神科に入院することになった。

弟が入院した後、これからの弟のことを考え、
実家の仕事を手伝うのが無難だろうということで、
実家から少し離れた割烹料理屋で住み込みで働くことになった。

そんな仕事をしているうちに、弟が元気になって退院してきた。

まだ、家の方ではうまくやる自信がないということだったので、
2人でアパートを借りて、弟も料理の修行をすることになった。

しかし2~3ヶ月すると弟は仕事に行けないといい始めた。
仕事の時間になっても布団から出ない弟を無理矢理起こして
仕事に行かせていた。

しかし、またすぐに仕事に行かなくなり、
結局辞めることになった。


「弟の死」

家に帰ってからの弟は、ますます調子が悪くなり、
部屋に引きこもり、ほとんど話をしなくなっていった。

肌寒い小雨の振る秋の夕方、夕食時に急に弟が暴れ出した。
いつになくひどい暴れようで、テーブルにイスを投げつけ、
外に出て隣の家にものを投げつけた。

父とようやく押さえつけ、家に連れ戻すと、
2階の自分の部屋に駆け上がっていった。

部屋ではラジカセが壊れるくらいの爆音で音楽をかけていた。

かなり興奮しているので、しばらくそっとして置いた方が
いいだろうと思い、部屋にはいかず1階の食堂で、
家族で様子を伺っていた。

しばらくしてそろそろ興奮もおさまった頃と思い、
父が部屋に様子を見に行ったらだれもいない。

しまったと思い、身体中を嫌な予感が駆けめぐった。

すぐに家族で手分けして近所を探し回ったがどこにもいない。
最後に家から少し離れた動物を飼っている小屋に行ってみた。

真夜中なので懐中電灯で辺りを照らしながらいくと、
小屋の戸が開いたままだった。

そこを懐中電灯で照らすと何かがぶら下がっていた。

はっとして、駆け寄り夢中で抱き上げて、床に下ろして、
頬をたたいて名前を呼んだが、何の反応もない、
急いで心臓マッサージや人工呼吸をしたが無駄だった。

父が「もうだめだよ、冷たくなっている」といい、
その時始めて、弟が死んだのかもしれないということを悟った。

それでも、まだ助かるような気がして、
急いで背中に負ぶって家に向かった。

背中に負ぶった弟が途中でぐにゃりと倒れ、
頭が地面に着き、後ろに転びそうになった。

死んだら背中に負ぶわれることさえ出来ないんだと思ったら、
急に悔し涙が出てきた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

病院に着くとすぐに死亡が確認され、
身体が清められた。

その後は警察の現場検証や、
通夜の準備であっという間に朝になった。

首に包帯が巻かれている以外は、
昨日と何も変わらない弟がそこにいた。

目をつむっている顔はむしろこの頃の普段の顔を思えば、
穏やかな顔だった。 

まるで、ほっとしているような、
そんな顔にさえ見えた。

そんな顔を眺めていると急に死というものが
実感として迫ってきて、涙があふれ出てきた。

なんでそんなに死に急いだ、せめて生きてさえいてくれれば、
なにか方法はあったのではないか。

もうこいつと話したり、喧嘩したり、酒を飲むこともできない。

いろんなことが頭の中を駆けめぐった。

火葬の日、弟を入れた柩が、分厚い鉄の扉の中に入れられた。

母の悲鳴のような鳴き声が辺りに響いた。

扉が閉められ、しばらくすると、煙突から煙が出始め、
弟が煙になって、秋晴れの空高く昇っていった。


「再び海外へ」

葬式の後、しばらく実家で特に何もせず
毎日をすごしていた。

そんなある日、父が「お前またオーストラリアに
行っていきたらどうだ、このままここにいてもみんなで
傷をなめあっているようで、かえって踏ん切りがつかないから。

お前たちが向こうに行って、自分の好きなことを
やって楽しんでいると思うだけで、父さんや母さんは
新しい希望が湧いてきそうな気がするよ」と言ってくれた。

このままここで暮らしていくのも憂鬱だけど、
今自分がいなくなったら両親が寂しがるだろうと
考えると踏ん切りがつかず、ただ悶々としていた時だったので、
その言葉で決心がついた。

オーストラリアに行ったから何かが変わるとは
思っていなかったが、なにか始めることで、
弟の死にけりをつけたかった。 

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再び日本を離れることになった。

2度目のオーストラリアはもう自分の庭のようなものだった。

住むところも仕事もすぐに決まった。
ドイツ人の借りているアパートに間借り(シェアー)して、
以前働いていたレストランで、また働かせてもらうことになった。

2度目になると勝手を知っている分だけ、
新鮮な感動も少なく、半年働いてビザが切れたところで、
オーストラリアを出ることにした。

その頃はオーストラリアよりも東南アジアに興味が移っていた。

オーストラリアを出て、まず始めに行ったのがバリ島だった。

バリ島をバイクで旅

バリの空港を出て、乗合タクシーに乗り、
町中に向かう途中で見えるものはまるで日本の戦後を
思わせるような光景だった。

久しぶりに胸の高鳴りを覚え、
なんだか急にワクワクしてきた。

クタビーチのそばにあるロスメン(民宿)に泊まりながら、
ぶらぶらと散歩するのが日課のような毎日だった。

バリ島で2週間ほどすごしシンガポールに飛び、
そこから陸路でマレーシア、タイへと向かった。

タイのバンコクにしばらく滞在し、以前からのあこがれだった
インドへ行くことにした。

バンコクから今にも落ちそうなほど揺れるインディアンエアーに
乗りなんとか無事にカルカッタに到着した。

インドの旅

インドはやはりすごかった。

空港に着くなり闇の両替屋や物売りが群がってきた。
町は人であふれかえり、道端には土の塊になっているような
老人がうずくまっている。

その迫力にうろたえていると、
物乞いに「あなたにはお金がある、
お金のないわれわれに与えるのは自然の摂理だ」と言われて、
たじたじになったこともあった。

インドには日本人の旅行者も結構いて、
なかには半年、1年と滞在している人も珍しくない。

長くいる人は個性的な人が多く、
そんな人たちとの出会いも
インドの魅力のひとつだった。

同じ宿になった人たちと毎晩のように
夜遅くまでいろんな話をしていた。

インド人の友達

そんなことを繰り返しているうちに、
こんな風にいろいろな人が集まり、
それぞれの思いを話せる場所。

そして、そこがきっかけで新しい人生を歩みだせるような、
そんな場所が日本にもあったらいいなあと思うようになった。

もともと旅が好きで日本中を単車で駆け巡っていたし、
調理の経験もあったので、ユースホステルかペンション
のような宿を自分でやってみたいと思うようになった。

インドの次はパキスタンに向かいヒマラヤの峠を越えて
シルクロードに向かう予定でパキスタンのビザを取得したのだが、
国境付近で民族紛争があり峠が閉鎖されていることがわかった。

厳しいヒマラヤ越えの旅を前に上がっていたテンションが
すっかり冷めてしまい、旅の疲れを急に感じ始めた。

特に一緒に旅していた文枝の気力や体力がそろそろ限界に
きているようで、旅もこの辺で終わりにして日本に帰ろう
ということになった。


「自然食との出会い」

帰国してしばらくは何もする気が起こらなかった。

自分はこれから何をすればいいのか、何ができるのか、
そんなことばかり考えながら毎日をもんもんと過ごしていた。

しばらくして、もうじっとしていられなくなり、
行く当てもないまま文枝と二人で旅に出ることにした。

旅ももうそろそろ終わりになる頃、
ペンションの雑誌を本屋で立ち読みしていたら
信州の安曇野にあるペンションのオーナーの記事が掲載されていた。

もう旅も終わろうとしており、何か一つでも手掛かりを
見つけて帰りたいと焦っていたこともあり、
すぐにそのペンションに電話をした。

「何でもいいからお手伝をさせてください。
給料もいりません、寝るのは車でもいいです」

「とにかくなんでもやりますから」と必死にお願いをしたら、
「それじゃあ1ヶ月後に来てください」と言ってくれた。

とりあえず次にやることが決まり新しい目標が
見つかったので、久しぶりにやる気満々で家に向かった。

お手伝いをすることになったのは信州の安曇野にある
「シャロム」というペンションだった。

シャロム

自然食に詳しい人なら名前ぐらいは知っている
その世界では有名なペンションでした。

わたしはここで始めて自然食と出会うことになる。

ちょうどその頃のわたしは料理屋で作っている料理に
少し疑問を抱いていたのだった。

日本の割烹料理屋でも仕事をしていたのだが、
その料理を本当に美味しいと思えなかったのだ。

もっと素材の滋味あふれるようなそんな料理を
模索していたころだった。

そんな時にそのペンションで自然食を食べて
「この味だ、自分が食べたかったのは」と思ったのだ。

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ペンションの仕事は自分に向いていると思った。

なによりも自然の中で暮らしながらたくさんの人たちと出会うことができ、
人のお世話をして喜んでもらえるというのは大きな魅力だった。

しかしペンションを自分の生涯の仕事にするか
というともう一つ踏み切れないでいたのだ。 

もっとなにか、もっと自分が納得できるものはないかと
どん欲に自然食から農業、哲学の本を読みあさっていた。

たまたま本屋でそのころ活動が始まったホリスティック医学の本を見つけた。

ホリスティック医学とは西洋医学だけではなく食事や心理、
東洋医学、ヨーガや気功などさまざまな方法を組み合わせて
おこない、人を全体的に見ていこうという医学である。

これを見てがぜん東洋医学に興味をもち始めたのだ。

ペンションでの暮らしで自然食やヨーガはすでに実践していたので、
東洋医学を勉強し治療する技術を身につけそれと宿泊施設を
合わせれば面白い施設ができるぞと思った。


「東洋医学の道へ」

そう考え始めたらすぐに実行に移さなければ気がすまないので、
すぐに鍼灸学校の入学案内を取り寄せた。

ぎりぎりで願書の提出が間に合った、仙台の学校になんとか合格し、
久しぶりの学生生活を仙台ですることになった。

鍼灸の専門学校は3年間で入学金や授業料もばかにならない金額で、
蓄えがほとんど底をついてしまった。

文枝が働いてくれていたおかげでなんとか生活できている状態だったが、
不思議と将来に対する不安は二人ともまったく感じていなかった。

どんなことをしても食っていくくらいならなんとかなる
という妙な自信が海外の生活で養われていたようだ。

朝は新聞配達をして、昼学校に行き、夕方からは治療院の
手伝いと漢方の勉強会、あの頃は本当によく勉強したと思う。

学ぶというのがこんなに面白いことだと
25歳になってはじめてわかった。

学校に入って半年ほどで学校の勉強だけでは限界を感じて、
個人的に漢方の勉強も始めた。

鍼灸院と漢方薬局をやっている先生のところで漢方と鍼灸を学び、
治療院の手伝いもさせていただいた。

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ここの先生が素晴らしい先生で、漢方や鍼灸などの
東洋医学だけではなく、易や四柱椎命、風水、気功、
精神世界など幅広い分野で独自の世界観を持っている先生だった。

学校ではなく私塾のような形で個人的に教えている
だけだったが、医師や衆議院議員、薬剤師、鍼灸師、
普通の主婦など多彩なメンバーでおこなわれた。

先生は現在の松下村塾だといっていた。

先生は時々東洋医学から話が脱線して精神世界の話になるのだが、
それがまた先生という人を学ぶいい学習になっていた。

私はこの先生から東洋医学の神髄を徹底的に教え込まれた。

この先生は素晴らしい哲学を持っていた先生にもかかわらず、
筆無精で本を出されていなかったので、全国的には
あまり有名ではなかった。

そのおかげで、本当に手取り足取りマンツーマンの様な
形で教えてもらうことができた。

私がいまゲストの方にアドバイスしているさまざまな
健康法の要になっている体質の見分け方はほとんど
この先生に教わったといってもいい。

またそれ以上に先生の生き方を通して、常に学び続ける姿勢と
物ごとの本質を見る大切さを身をもって教えていただいたような気がする。

この先生との出会いは私の人生の大きなターニングポイントになった。

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鍼灸学校を卒業し無事に国家試験にも合格したところで、
東京の治療院で働くことにした。

世田谷の三軒茶屋にある治療院で患者さんの数も多く
忙しいところだった。

しばらくして代々木上原に分院を出す話があり、
新規の治療院を立ち上げることに興味があったので
自らすすんでオープニングスタッフに加わった。

新しい治療院は始めこそ暇だったものの、
しばらくすると口コミで患者さんが増え始め順調に軌道に乗り始めた。

この治療院から歩いて10分ほどのところに
以前提携診療所になっていた幡ヶ谷診療所があった。

この診療所は川勝先生という先生が院長をしていたが、
私が食事療法の施設に興味があることを知ると
伊豆の保養所でスタッフを募集しているらしいと教えてくれた。

すぐに電話をして詳しい話を聞いてみると、
調理の経験があって、ペンションでも働いたことがあり、
治療師の資格があるなら文句なしなので、
できるだけ早く来てほしいという返事だった。


「伊豆での暮らし」

東京を離れ、伊豆での新しい暮らしが始まった。

北国で育った私たちには伊豆のうっそうとした緑は新鮮だった。

東京の治療院にいるときはどこかで仕事として割り切って
働いていたが、伊豆での仕事は自分の関心のあることだったので、
毎日張り切ってやっていた。

ただ、思い入れがある分だけしばらくすると理想と現実の
ギャップを感じるようになってきた。

ゲストにもっと喜んでもらうための仕事よりも
事務仕事の方に追われているような感じだった。

そんな中で仕事をしているうちに自分で独立してやってみたい。

自分の力を出し切ってのびのびと思うようにやってみたい
といつも思うようになってきた。

そんなときに日経新聞の取材が来て新聞に記事が載ることになった。

この反響がものすごいものだった。

その時にみんなこんな施設を求めている、ただその受け皿になるような
普通の人が違和感なく行ける施設がないだけなんだと確信した。


「独立へ」

そう思うともう自分でやりたいと思う気持ちは抑えきれなくなっていた。

自己資金はあまりなかったので、強引に両親を納得させ、
両親から借金するだけでなく、両親にも借金をさせ、
当然、自分も借金をして物件を探しはじめた。

家族との写真

その頃私は30歳、上の子がまだ3歳、下の子が生まれたばかり、
なにもよりによってこんなときに大借金をして勝負をかけなくても、
と親が心配するのも無理はない。

もちろん私にも不安はないわけではなかった。
しかし自分の夢がかなうという期待の方がもっと大きかった。

伊豆に住んでいたのではじめは伊豆で探していた。

しかし、伊豆は地価も高くなかなか自分の手の届く範囲では
思うような物件が見つからなかった。

結局、伊豆はあきらめることにした。

今度は首都圏からの交通の便を考え、東京にいたころ
バイクでよく行った八ケ岳の周辺で探すことにした。

開発が進み建て込んでいる伊豆に比べると八ケ岳は
広々してまだ田舎っぽさが残っていた。

電車で来る人にも便利がいいように特急の止まる駅が
いいと思っていたら、小淵沢にちょうどいい物件が見つかった。

周りの建物から離れていて駅や高速のインターからもさほど遠くない。

ペンションをやっていた人がやめて空き家になって
2年くらいになっていた。

ぱっと見はおんぼろのようになっていたが、
手直しすれば見違えるようにきれいになると思った。

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それから毎週のように伊豆と小淵沢の往復が始まった。

不動産屋との打ち合わせ、金融機関との折衝、
役所関係の届け出、許可、新しい施設に必要な買い物、
改装工事の打ち合わせ等々・・・。

しなければいけないことは山ほどあった。

それも仕事をしながらだったので、
普段通りに仕事をこなしながら準備を進めていた。

休みの前の日に伊豆を出て深夜に小淵沢に着いて、
車で仮眠して日中用事を済ませ、夜に戻るという
ハードなスケジュールだったが、自分のやりたいことが
できるという充実感があったので大変だとはあまり感じなかった。

むしろ忙しくなればなるほど力がみなぎってくるような
感じさえしてくるのだった。


「フォルス オープン!」

オープンは平成8年8月1日。

食生活からライフスタイルを改善していこうという考えから
「ライフスタイル改善センター・フォルス」という名称にした。

「フォルス」とはFood(食)とHealth(健康)を合わせて
自分で作った言葉だった。

フォルス

始めの頃はまだプログラムも完成されたものではなかったが、
その分とにかく一生懸命にゲストと向き合っていた。

治療には技術的な部分だけではなく、相手を思う気持ちも
治療効果にずいぶんと影響しているのだと思う。

整体や鍼灸などという技術を通して治療師の「気」が伝わり、
それが相手の治癒力を高めていくのだ。

そういった意味ではオープン当初は過剰なほどの「気」
を発していたのだと思う。

今考えてもあの頃はよくやったと思う。

朝起きてお茶の用意をしてお風呂とトイレの掃除をして
それから朝の体操、治療をしていた。

家内はまだ生まれたばかりの玄を背中に負ぶって、
掃除から調理までほとんど一人でこなしていた。
一日中フル回転で働いて布団に入ると、
すぐに死んだように眠る毎日だった。

だけど自分でやっている、そしてみんなが喜んで
くれているという充実感からかあまり疲れたとか
大変だとは思わなかった。

フォルスを始めて3年目になるとゲストの数も増えてきて
施設が手狭になってきた。


「伊豆へ」

温暖で冬にも気軽に行けて、温泉があって、
個室が何室か取れるようなそんな施設に移ろう。

ただ、施設を移転させるだけではなく、その施設を核にして、
近くにお年寄りや社会とうまく関われなくなっている人達が
一緒に暮らしながら、社会復帰できるような施設も作りたい。

そして将来的に、そんな施設が一体となってその周辺が
現代人のやすらぎの里になっていけたらと思うようになってきた。

5年間施設を運営してみて、少しずつ自分の気持ちも変化してきた。

なかなか普段の生活ではライフスタイルを変えようと思っても、
現実には難しい人もいる。

そんな人にも、ここにいるときだけでも、やすらぎを感じて欲しい。

そして、そんな体験の中で、その人なりの気づきを感じて
もらえれば嬉しい。

そのような思いを込めて新しい施設は「やすらぎの里」
という名前にすることにした。

思い立ったらとりあえず、行動してみる、
細かいことは後から考える。

さっそく、新しい場所探しが始まった。

東京や名古屋、関西など大都市圏からのアクセスが良くて、
温暖で温泉があって、自然が残っている。

そんな条件をクリヤーできるのは伊豆しかなかった。


「やすらぎの里へ」

何度か伊豆に通っているうちに、いい物件が見つかった。

元国鉄の保養所だったところで、
今は民間の企業が温泉旅館として使っているところだった。

大きな温泉が付いていて、広い大広間もあり、
個室に使えそうな小さな間取りの部屋が何室かあった。

特に気に入ったのが屋上からの眺めでで、
目の前に海に浮かぶ大島や大室山が見渡せる絶景の眺めだった。

日の出

ここに露天風呂を作ったら、さぞ気持ちいいだろう。
ゲストの方もきっと喜んでくれるに違いない。

そんなことを考えていると夢が膨らんできた。

伊豆の施設はもともと国鉄が作った建物なので、
基本的な作りはしっかりしていた。

しかし、築30年以上経っているので、
さすがにつくりの古さは隠せない。

改装は旅館の改装を専門に手がける設計士の
先生にお願いすることにした。

「和風とアジアの雰囲気をミックスさせた、
くつろげる空間にしたいんです」とお願いした。

設計士の先生もこのような施設は始めての経験だったらしく、
いろんなアイディアを出してやってくれた。

限られた予算の中で全体の雰囲気を作り出すために、
設計にはさまざまな工夫がされていた。

30年前そのままの水周りはすべて取り替えられて、
新しいものに変えられた。

照明はできるだけ間接照明にして、
落ち着いた雰囲気になるようにした。

治療室は以前、マージャン部屋と卓球室だったところを
壁、床、天井、照明、すべて取り替えられて、
見違えるようなアジアンチックな癒しの空間が出来上がった。

この治療室の大きな窓からは、一年中緑を絶やすことのない、
しっとりしたシダの葉が眺められ、よりアジアの雰囲気を高めてくれる。

この緑が見える窓際にあるマッサージベットに寝そべると、
青い空とみずみずしいシダの緑を見ることができる。

窓の外の自然を感じながら治療を受けられ、
とてもリラックスできるとゲストの方にも喜んでもらっています。

この施設には温泉があり、お風呂は大、中、小の
3つのお風呂がついていた。

定員を考えれば充分だったが、どうしても屋上の
眺めのいいところに露天風呂を作りたかった。

日中は目の前に大海原を望み、夜は満点の星空、
極めつけは満月が映し出された海の幻想的な眺め。

この眺めをなんとしてもゲストの方にも見て、
感動してもらいたい。

それもただ見るだけではなく、温泉に入りながら見れたら
どんなに気持ちいいことだろう。

設計士の先生に無理にお願いして、屋上に露天風呂と
サウナと水風呂を作ってもらうことにした。

出来上がった露天風呂は、作ってくれた大工さんも、
「わしもいくつも露天風呂を作ったが、こんな眺めのいいお風呂は
初めて作ったよ」というほど、すばらしい眺望の露天風呂になった。

海の見える展望露天風呂

「やすらぎを求めて」

やすらぎの里は引越し当初はしばらくゲストの数も少なかったが、
しばらくすると雑誌やテレビの取材が増えてきて
予約が混み合うようになってきた。

ゲストの数が多くなると、症状の重い疾患の方や
心理的な問題を抱えている方も多くなってきた。

癌や心臓病、腎臓病、膠原病、うつ病、摂食障害・・・。

あまり重い病気の方はお受けできないと断っていたが、
本人にどうしてもと頼まれると、
断りきれない場合もあった。

夜は、スタッフがみんな家に帰るため、
夜間の管理はすべて私と家内がやっていた。

症状が不安定な方がいる週は、
安心してゆっくり眠れない日が続く場合もあった。

また、精神的に不安定な方の場合は、
夜中に何度も電話で呼び出されることもある。

そんなことがあっても帰るときの元気な顔を見ると、
その大変さもすっかり飛んでいってしまう。

大変なことも多いけど、こんなにお客さんに喜んでもらえて、
感謝される仕事は他にはないと思う。

私のような人間でも、
少しはみんなの役に立てると思うと、
本当に嬉しい。

現代のようにめまぐるしく変化する時代を生きている人たちが、
走り続けるのを少し休んで、自分自身を見つめ直し、
心と身体のバランスを取り戻す、
そんな場所になれたらと思っています。

30歳でフォルスを始めて、ずっと走り続けて、
なんとかここまでやってきました。

これからは少しペースを落として、
じっくり歩いてみようと思っています。

かみさんも、朝から晩まで本当によくやってくれました。

そんな、かみさんにもやすらぎの時間を取らせてあげたいと、
しみじみ思います。

子供達もこんな無鉄砲な私によくついて来てくれました。

やすらぎ・・・。

それは自分自身にとっても永遠のテーマのようです。

座禅

やすらぎへの道のり 「終わり」

※最後までお読みいただきまして、本当にありがとうございます。