やすらぎへの道のり 「その3」

久しぶりの日本では、重苦しい現実が待ちかまえていた。
弟は中学のときにいじめにあい、高校に入っても同じグループにいじめられて、高2頃から学校を休むようになっていたようだ。
18歳で東京に出て、その後すぐにオーストラリアに旅立ち、6年位ほとんど家に帰ったことがない様な生活を続けていたので、弟とも6年くらいまともにあったことがなかった。
自分の記憶の中では小学生の弟のイメージしかなかった。それだけ、ほとんど家のことなど考えることなく、自分のやりたいことばかりやっていたのかもしれない。
久しぶりにあった弟は暗くうつむいて、いかにも病的というような姿だった。
弟がそんな風になっていて、親がその対応に神経をすり減らしていることもまったく知らずに、オーストラリアで遊びほうけていたのだった。
そのころの弟は対人恐怖症の様な状態になっていて、特に同世代の人間が苦手らしく、車で連れ出しても、高校生が町を歩いているとシートを倒して隠れるようなそぶりをしていた。 
それからしばらく家族で何とかしようとしたが、あまり本人の状態に変化は見られず、結局、精神科に入院することになった。
最初に入院した病院はひどいところだった。
体育館のような大部屋にマットレスだけのベットで、ほとんど避難所生活という状態のところだった。
薬もかなり強いものらしく、入院して何日かすると視点が定まらなくなり、一日中ボーとして、そのうち箸を持つ手がふるえて自分で食事をとるのも難しくなってきた。
入院している患者はほとんどボケ老人の人たちばかりで、先生に状態を聞いても、弟さんは精神分裂病だから治るのは難しいですねと悲観的な説明しかしてくれなかった。
退院させようと先生に相談してもこの状態では無理ですとの一点張り、もうこうなったら、何とか連れ出して強引に退院させるしかないと思った。
そんなときに、弟が病院から5Km位離れた親戚の家に真冬の雪のちらつく中、パジャマのまま裸足で、逃げ出してきたと電話があった。
詳しい状況を知らず、びっくりしている親戚の家に飛んでいった。 
弟の話を聞いてみると「あそこにいたら自分は本当にダメになりそうだと思って、朦朧とする意識の中でようやく逃げ出してきた」と言う。
うつろな目をしていたので、もうほとんど思考能力もないのかと思っていたが、それなりに考えていたようだ。  
ちょっと強引だったが、ちょうどいい機会だったので、そのまま弟が帰りたくないと言っているということにして退院させることにした。
ただ、家にいてもあまりいい状態ではなかったので、少し遠くのあまり薬は使わないで生活習慣を規則正しくして治療するという病院に入院させることにした。
弟は少しいやがったが、もうその頃になるとものを投げたり、暴れたりして、家族では面倒見切れなくなっていたので、病院にお願いすることにした。
弟が入院した後、これからの弟のことを考え、実家の仕事を手伝うのが無難だろうということで、実家から少し離れた割烹料理屋で住み込みで働くことになった。
オーストラリアの店と違って、日本での仕事は上下関係や技術の習得はとても厳しいものだった。
日本で板前の経験のない私は、自分よりだいぶ年下の先輩に使われる立場になり、主な仕事は鍋を洗うことと、野菜を刻んだり、先輩の指示通りに盛りつけをすることだった。
そんな仕事をしているうちに、弟が元気になって退院してきた。まだ、家の方ではうまくやる自信がないということだったので、2人でアパートを借りて、弟も料理の修行をすることになった。
何年か修行して、2人で父親がやっている食堂を大きくしていく計画を立てていた。
しかし2~3ヶ月すると弟は仕事に行けないといい始めた。
仕事の時間になっても布団から出ない弟を無理矢理起こして仕事に行かせていた。しかし、またすぐに仕事に行かなくなり、結局辞めることになった。
実家に帰っても親だけでは難しいだろうということで、私も仕事を辞めてアパートを引き払い、2人で実家に帰ることにした。

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