養生館の食事

養生館の食事は、水・木・金が養生断食の食事で、
土曜日の夜には美味しい養生食が味わえます。

玄米と季節の野菜、お豆腐や地物の魚を中心にした、
滋味あふれる養生食をお出ししています。

食べた方が、ほっとやすらぐような優しい味付けで、
初めて食べたのに、懐かしい、
お母さんの手料理のような食事です。

玄米と季節のお野菜、お豆腐や地物の魚を中心にした
食材をひとつひとつ心をこめて、
丁寧に調理しています。

やすらぎの里の食事

本当に体にいいものは、美味しい。
それも、毎日食べ続けても美味しく食べられる。

心と体を養い、やすらぎを感じる食事。

そんな食事をお出しできるように、
今日も心を込めて、お料理しています。


やすらぎの里の食材

やすらぎの里で使っているお野菜は、
伊東市宇佐美の「やおやの内野」さんから
届けてもらった、旬の地のお野菜で、
できる限り有機無農薬栽培のものを使っています。

やおやの内野さん

お米は実家の両親が丹精込めて作った、
有機減農薬栽培のひとめぼれです。

とっても美味しいと、
リピーターの方にも好評です。

お料理で使う調味料は、
伝統的な製法でじっくり時間をかけて作られた
本物だけを厳選して使っています。


体で覚える食養生

日本の伝統食を見直そう健康的な食生活をしようと頭では分かっていても、
つい食べ過ぎてしまう。
いろんな知識はたくさんあるけど、なかなか長続きしない。

大事なのは、知っていることではなく、
できるようになること。
できるようになるためには、実際に体験して、
体で覚えなければいけません。

十分にお腹を空かせてから、ゆっくり、よく味わって食べる。
心の底から美味しい~!っと感じたとき、
食事の大切さが、体でよく分かるようになります。

実際に食べて、美味しい、ありがたいという感動とともに、
食養生を体で覚えて欲しいと思っています。


養生先生の「養生講座」

養生先生

養生館での食事は、「食べる瞑想」です。

健康のために「何を食べるか」ということには関心があっても、
「どう食べるか」については意外に無関心ではないでしょうか。

「何を食べるか」はもちろんのこと、
「どう食べるか」も同じくらい、
もしくは、それ以上に大切なことであると考えています。

「○○を食べると、健康になる、やせる、病気が治る」
こうした情報は巷に溢れています。

しかし、より基本的な、
それを「どう食べるか」ということについては、
今まで体系だった教育を受けてこなかったのではないでしょうか。

それは食べるという行為が
あまりに本能に根ざした基本的な行為であって、
無意識にでも行われてしまうからでしょう。

あえて教育が行われるとすれば、
家庭での躾の領域になるのかもしれませんが、
食生活が影響する生活習慣病の増加傾向を見れば、
それが不十分であることを思い知らされます。

現代の核家族化によって、
祖父母などの経験豊かな年長者に接する機会が減ったことも、
連綿と受け継がれてきた食育、
食の躾の断絶を招いた大きな要因でしょう。

つまり、現代人は意識的、主体的に学ぶ姿勢をもたない限り、
食べることについて無知であることを免れないということです。

「よく噛み、味わう」という
食事の基本にして本質的なことを思い出すために、
少食にして注意深く食べる体験をお勧めしています。

食物に対して新鮮な感動を味わうことができるようになります。

普段であれば見向きもしないような粗末な食事であっても、
滋味深く染み渡っていきます。

食のありがたみ、噛める幸せ、味わえる幸せ、
これは理屈ではなく身体が感じるものなのでしょう。

食べることをきわめていくと、
そのまま瞑想的な境地に入っていくことができるようになります。

噛むことは人間の情緒と深く関わっている右脳を活性化する働きや、
噛むリズムがセロトニン神経に働きかけ情動を安定させ、
ストレスを軽減する働きがあることも実証されてきています。

ストレス大食い、ヤケ食いの改善にも
活用できるということです。

甘いもののヤケ食いは、
たしかにストレスを軽減する効果はあるのですが、
胃腸障害や肥満のリスクが大きくなります。

ストレス軽減の手段を食べることから
噛むことへシフトチェンジをすることで、
健康的なストレスマネジメント法になるでしょう。

瞑想は今この瞬間を味わうことにほかなりません。

ただでさえせわしない普段の生活。

心はどうしてもあちらこちらと散漫に、
または周囲に流されるままに、
「今ここで起きていること」を十分に
味わい尽くすことが出来ていないように思います。

「過去に対する後悔」「将来に対する不安」が
心身の緊張を生みます。


食べる瞑想

感謝の食事

食物をよく見ます。

どんな形、色をしているのか。

触ってみます。

例えば植物であれば、
なっていた木をイメージします。

一粒の種から、芽が出て枝となり木となり、
花を咲かせ、今こうやって実を結んでいる。

この食物を丹精込めて作った人々を想像します。

日に焼けたやさしい顔が浮かぶようです。

口の中に含みます。

まだ噛みません。
舌や口で感じます。

噛みます。
味が口中に広がり、唾液もたくさん出てきます。

飲まずに味わいます。

飲み込みます。

口から食道に流れていくことを感じます。

このように過程をスローダウンさせながら味わってみると、
俄然、瞑想的な雰囲気が出てきます。

ゆっくり行うことで、
いろいろな気付きが生まれます。

こうして食べている時、
「今ここにいた」というわけです。

往々にして心は味わう前に先に行きたがります。
私たちの心は焦っているのです。

瞑想によって心を一ヶ所においてみる。

すると「自分への理解」「世界への理解」が
グッと深まっていくのを感じます。

過去にも未来にも執着しないあり方。

瞑想はそのための心のトレーニング。

きわめて科学的です。

人間の原初的なあり方も、
きっと一つの物事に専心する「シングルタスク」であったことでしょう。

現代は利便性、経済効率が優先される社会です。

同時にいくつもの物事をこなせることが
必須条件であるかのようです。

しかし、そうした「マルチタスク」であることが、心を疲弊させ、
ひいては「うつ」に代表されるような、
いわば精神の緊急避難としてのフリーズ現象を
引き起こす原因になるのではないでしょうか。

瞑想的な境地として
「マインドフルネス」という概念があります。

今の瞬間の現実に常に気づきを向け、
その現実をあるがままに知覚し、
それに対する思考や感情には捉われないでいる心の持ち方、
存在の有様、と定義されます。

私たちは日々の生活は、
どれだけ“今”を生きているでしょうか。

食べることでもそうです。

新聞を読みながら、テレビを見ながら、
仕事の事を考えながら、食べていないでしょうか。

味わっているようで、
そのことに集中していない。

どれも中途半端に終始している。

食べ物が口に入り、
噛み砕かれ、舌の上でその味を知覚し、
のどを通り抜けて、胃で消化されていく。

その過程をつぶさに感じることで、
食物本来のおいしさや食感に気づき、
またそうであるからこそ、栄養を完全に吸収し、
残滓を排泄しきる機構が働くのではないでしょうか。

「中途半端」というのは、
とてももったいないことです。

例えば映画を観に行ったとして、
その映画の時間中、何度もトイレに席を立ち、
そのストーリーがほとんど理解されない。

その映画を人生とすれば、
日々の生活どれにも専心することなく中途半端に過ごすことで、
人生を味わいつくすことができていないかもしれません。

そうした潜在的な「むなしさ」が、
死を苦しめ恐れさせるのではないでしょうか。

全身を動かしきった先に、深い睡眠があるように、
生ききった先に、静寂という死が待っているのだと思います。