【養生ブログ】命を養う

呼吸法

【命を養う】

国公立の大規模な「こども病院」に行くと、手足の細いこどもを多く見かけます。

重篤な内臓疾患の場合、慢性的に栄養吸収不全であるため、限られた栄養は生命維持に優先され、優先順位の下位である手足への栄養が後回しにされた結果、特異の体型となります。

体の自由がきかず車いすや、ベッドに寝たまま移動する子もいます。

経口栄養がかなわない子、生命維持装置で呼吸している子。

奇形の子。

通院している子ばかりではありません、病棟から出られない子も大勢いるわけです。

生まれて間もなくこの世を去る子も、残念ですがいます。

この不条理に向き合わない、安易な健康志向は危険です。

豊かな日本で五体満足、こうして日常生活を送れているだけで恵まれているという認識はあっていいのだろうと思います。

その恩恵に感謝を忘れ、まだ足りないとばかりに健康志向に邁進するのも、病気を敵対視し排除しようとするのも、生命に心を寄せているとは言えないでしょう。

私淑する増永静人先生の講義録を紹介したいと思います。

たまたま本棚の奥から出てきて読み直してみたところ、自分を見つめ直す良い機会となりました。

長文ですがお付き合いください。

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「お互いに見つめ合う」

何を食べてもアタらないような生まれつき丈夫な人がいる。そして一方では病気ばかりしている人がいるし、生まれながらに脳性小児麻痺で身体の自由がきかない人がいる。このへんをどう考えるべきかは私たちには解けない問題であった。

「キリストが盲目の人を指して『あの盲は何の罪によって盲になったのか』つまり、盲になったのはその人の罪ではないと言っていますね。神の命によって彼らは生まれてきたのだと。

だからね、生まれつき身体が弱くて非常に病気をする人にも、役目があるんです。病気というものを通して、みんなに見せねばならないものがありますからね。生まれつき奇形という形をとって、みんなに何か示さねばならないことがあるのです。だから、その人たちだけが悪い、何か責任があるのだと言ったらこれはおかしいのであって、お互いに見合わなければいけない。

非常に病気をする人と病気をしない人がお互いに見合って、協力し合って、生命の原理を追求せねばならないのです。不自然な生活をする人と、自然な生活をする人とも見合わねばいけない。お前は不自然な生活をしてるから悪いんだ、といってはおかしいわけでしょう。それぞれの人に役割があるんですから。

私が最近中国の古典の中で見つけた凄い言葉があるんです。最近、神仙術の研究をしてましてね。『神農本草経』という本に、薬を上、中、下と分けてあって、「疾を治す」のを下薬、「生を養う」のを中薬、「命を養う」のを上薬、としています。下薬は地に応じ、中薬は人に応じ、上薬は天に応ずる、とある。

上薬 養命 応天
中薬 養生 応人
下薬 治疾 応地

これは、こういうことなんですよ。
下薬=病気を治すことだけを考えているのは非常に具体的ですけれども、長く使ってはいけない、とあります。
中薬=生を養う薬は『人に応ず』という、この『生』は個体的な生命なのです。個々の生命を養うということは確かにいいんですが、使い方によってはその個人だけの意味に考えがちで、本当に理想的な薬の使い方ではない。

理想的な薬の使い方は『命に応ずる』この『命』を今は単なる我々の命だと思っている。しかし、命じゃないんです。これは、いわゆる天命、何かの使命なんですね。ひとりひとりの個体を養うだけではいけない。その個体の生を通して、我々に与えられている何かの命を自覚し、それを養っていくものでないと本当の意味での治療ではない、ということなのです。私はこれを言いたいですね。

多くの人は、自分の生命を大事にすることが健康法だと思っている。しかし個体的な生命というのは自分だけの満足感ですよ。個々の生命は確かに大事ですが、それを保ちその生命を使って何かをしなければいけない使命があるんです。みんなに。その使命が大事だからこそ、我々は個体というものを大切にしなければいかんのです。結局、ここまでいかねば東洋医学ではないと、最近私は考えるようになりました。

どうしても使命を見つけねばいけない。何か、と。そうなれば、病気をする人にも、奇形の人にも、いろんな運命に出会う人にも、それぞれの意味がある。お互いに人間が見合って、『あの人から何を学ぶか』と考える。そういうものでなければ、人間という共同生命体の意味が分からない。

また、人間が他の動物の生命、植物の生命を眺めることによって、自分の生命とはいったいどういうものだろうかと考える。そこに共通した生命観、生命としての一体感が生まれるんです。これが仏教で言うところの「一木一草にも仏性有り」ということでしょうね。決してあの『仏性有り』という言葉は観念的な理解ではないですね。実践を通してお互いの共通した生命観を持ち、『みんな孤立してはいけないんだ』と知ることです。連帯して、共同して行かねばいけない。そりゃ戦いも争いもある、殺し合うこともあるかもしれないけれど、それは生命の一つの姿ですからね。結局、個体を守ることが我々の使命ではないのですから。個体は、あるときは死なねばいけないのです。

このあいだも鯉の活造りを食べましてね、食べてる間もピクピク動いてますよ、「殺生やなあ」と食べてる人が言った。それで私は言ったんです。「あなた、殺生という言葉をつかったら、この鯉が泣くよ。この鯉を往生させるんですよ。往生ということは、この鯉の命が私に生きて、私のなかで新しい生命を保っているんだ。私のなかで、もっと大きな働きをするためにこの鯉は死んでくれたのだ。そういう見方をしなきゃ、鯉に悪いよ」と。お互い殺して行かなきゃならんことがあるけど、すべて往生ですよ。そしてまた私も、どっかの生命のところへ行って、新しい大きな働きのために往生する、と。これが生命の連帯感でしょうね。

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