【養生ブログ】人間的な営みとしての体操

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「養生館では筋肉を鍛えることにあまり言及されませんでしたがどうしてですか?」

と質問を受けました。

その時にお答えしたのですが、不十分でしたのでここでお答えします。

長文になりますが、お付き合いください。

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見た目の筋肉美を求めて行うトレーニングは趣味の世界としても、僕は筋肉を鍛えることに否定的ではありません。

ただ日常動作が「本然的」あるいは「意識的」にならない限り、力で押し切るようなガサツさばかりが助長され、決して望む痛みやこりのない身体にはならないだろうと思うのです。

以前、あるゲストからこんなお話伺いました。

「今まで、デスクワークが続きひどい腰痛でした。特に朝が大変で着替えるのもやっと。ところが、毎朝NHKで放映されているテレビ体操を見よう見まねで始めたところ、当初は体が思ったように動かず先が思いやられましたが、一ヶ月続けていたら嘘のように体が楽になりました。」

自分自身の身体の観察と、多くの方々の身体に触れる機会から、やはり現代人は文明が進み生活が便利になった半面、運動量が少なくなり、日常動作の質も劣化し、身体の不調も増えてきたと思います。

もちろん病気の原因は単独ではありませんが、健康体への手がかりとして、目に見えてまず行いやすい構造上の改善、ひいては「身体に対する内省的な感性」を高める「体操」が有意義であると思います。

整体の祖、野口晴哉は「体操のおこり」と題してこのように述べていました。

『原始の人には体操はありませんでした。
それは衣食住みな自分の体を使って営まねばなりませんでしたから、体の使い方は平均し余分な知識の為の不安が無いので眠くなって眠り、醒めて起きていたので一日の疲れは一日で抜けておったのでしょう。
もっとも外傷や悪いものを食べた為におこる体の変動はありましたでしょう。その時は自然の反射運動で傷口を押さえるとか、凝ったところを叩くとか、泣きわめき体をゆすぶるとか 無意識の体操をして調整したかもしれませんが、意識して体操の必要を感じだしたのは生活様式の分業によって体の使い方が偏りだしてからだろうと思います。縫う人は朝から晩迄 針を指にもって腕を使い、脚を使うことは手のようではありません。考える人は坐って頭ばかり使い、観る人は木の上で眼ばかり使うようになって体の疲れる部部に偏りが生じたのです。その為に調整体操の必要を先ず体が感じ、たがやす人は脚を伸し腰を叩き、縫う人は眼を擦りまたたきし、ペンをとる人は手を伸ばして欠伸し、次第に之を意識して行うようになったであろうことは今でも同じことが行われているのであります。
文明が進歩する程 生活は分業化し、体操の必要は益々多くなっている筈でありますのに体の感じを段々粗末にしだした人間は異常を病気にし薬を服し湯に入ることを憶えて 体操を怠ってしまいましたが、いつの時代になっても自分の糞は自分で気張ることが一番早道であります。他人の手を煩わし、その人の手伝い方を褒めたり、けなしたりして、自分で気張ることを忘れてしまっているように、人間は自分の体のことを人任せにしだして体力を失いだしたのであります。そして体操はスポーツ化し、医術とスポーツが体操の分野を冒してしまいましたが、しかし矢張り人間が本当に丈夫に元気に生くる為には自分でやる体操によって体をいつも整えておくことが一番大切だったことにいつかは気づくことでしょう。』

世の中には様々な健康法や治療法がありますが、それは補助的なもので、「自分の健康は自分でつくる」という気概の上に、相乗的に奏功するものでしょう。

本質的に第三者からの一方的な外圧で治すことなどできないということでもあります。

不調をきっかけに体操を始める。

そのうちに「心と体を深く探求する営み」として、人生をより輝かせるものとなることでしょう。

とかく「体を柔らかくしよう」と意気込み、結果を急ぎ、焦った気持ちでストレッチを行い、かえって体を痛めてしまうケースが多くあります。

当初の目的とは逆行してしまうということです。

恥を承知で言うのですが、僕自身、何度となくこの失敗を繰り返してきました。

硬くなるだけならまだしも、筋肉をいためてしばらく痛みが続くこともありました。

そうした試行錯誤を繰り返しながら、いわば自分の身体を実験台として様々な試みをしてきたわけです。

その過程で得られた経験を披瀝することで、ストレッチや体操を実践する上で悩んでいる方の参考になればと思います。

最近、僕は「ストレッチ」や「ヨガ」という固有名詞を用いることを避けるようになりました。

これらの言葉にまとわりつく、既成のイメージが、誤解を招きやすいと感じるからです。

くにゃくにゃと柔らかければ柔らかい方が良いという誤解は、体の硬い人や初心者を遠ざけてしまうことになります。

実際に柔らかければ良いとも限らず、身体運動における基本となる5つ動き「前屈」「側屈」「ねじり」「反り」「開閉」が、バランス良く行える体、つまり、身体の有機的な連動性を担保する柔軟性であるべきなのです。

なので、あえて「体操」と呼ぶようになりました。

とはいえ、器械体操やラジオ体操とも違うのですが、「身体を通じて心身を内観する営み」として僕は捉えています。

「筋肉を引き伸ばす」と身体は柔らかくなるという、いかにも「常識的な発想」も、僕自身の経験から「思い込み」であったと感じています。

実際、ある動きをしている時に、身体の硬さに出会うわけですが、そこでその硬さに抗うようにして引き伸ばすことで、一時的にに伸びた感じがするのですが、痛みを伴う上に、その後、反発的に硬く縮こまり、当初よりも可動域、柔軟性を狭める結果となってしまいます。

「筋紡錘」という筋肉にあるセンサーが、無理な伸長を感知して筋収縮を促すというのは筋生理学的な解釈ですが、専門用語を引き合いに出さなくても、無理を通せば必ず反発に遭うというのは諸事万般に共通した真理です。

経絡思想と自身の臨床経験から独自の体操を案出した増永静人は、体操の東洋的な解釈としてこう述べています。

『のばすということは、ひっぱるのではなくて、のびのびさせることで、こもっているものを表現することです。こころを表現するのを話すー放すとも述べるー延べるともいうでしょう。このように姿勢をとることで、身体で話しかける気持ちが大切なことで、決して筋肉や関節をのばしていると思ってはいけません。』

どうしても「筋肉を伸ばす」ことに意識を傾注しがちなのですが、その部分的な「過集中」こそが、コリ、こわばり、とらわれ、力み、にほかならず、その頑なさという「我」をなくすことが、なにより求められていることなのです。

『このツッパリとか、スジのツレは、筋肉の固さとしても感じられます。そこで、ついハズミをつけたり、力を入れてのばし、柔軟度を大きくしようというのが、従来の体操のイメージです。多少痛いときでも我慢して引っ張ると、余計に曲がったり、のびるのは事実です。それは筋肉が刺激によって循環が促進されたり、慣れによる現象と思われます。健康体操はそうした考えとは逆です。』

と前置きをした上で、具体的な方法を、以下のように説明しています。

『息を吸って、いっぱいのびたという感じをそのまま保って、決してムリにのばそうとしてはいけません。そこで息を静かにはいていくわけです。力をゆるめようとしても、思いどおりにはいきませんが、息をはくと共に「気を抜く」というイメージをもつと、全身的にゆるむのがわかります。次に息を吸うときはゆるんだ分だけのばされて、少しのびた感じがわかり、そこで再びツレを感じます。このツレを、やはり息をはきながら、ゆるむ感じをつかんでみて下さい。3度ぐらい、呼吸をくり返してから、静かに元の位置にもどります。』

これは実際にやってみればわかりますが、本当にその通りです。

増永先生は志半ばで夭折されましたが、この体操の創出をもって自らの経絡理論の完成と位置づけていました。

そして、絶筆の巻末に「体操とは生き方の反省である」と題した文章で締めくくっておられました。

『自然のままの、また本能に従って生活を営んでいる生物には、体操は必要でない。だから、赤ん坊や幼児には、本来体操は不必要なのです。文明社会になると、その赤ん坊や幼児までが意識的な生活を環境から強いられるために、体操が必要になってきます。集団生活をするようになると強制的な動きや分業的な役割によって、ますます不自然な生き方がふえてきます。そこで、本来自然のものであった人間の心身に、歪みが生じて、放っておいては復元しにくくなってきます。そうした生き方を反省するために体操が考えられてきたといえるでしょう。心の面から正しい生き方を学ぼうとする宗教や学問に対して、身体の面から直接に正しい生き方を自分に問いかけてみるという体操のあり方は、ただ形を真似て動作を同じようにしても意味がありません。もしあなたがこのイメージ体操(増永先生創案の体操のこと)の写真を見ただけで、これまでの体操と結局は同じことをやらせるだけだと考えたなら、それはあなたが、この人生で大切なものを見落としてしまったことになります。形がきれいにできて動作が上手になることは、たしかに熱心に練習すればできるでしょうし、そのことであなたが目的とした健康や美容の効果も得られるかもしれません。しかし、それだけでは、病気になって薬を飲んで治ったというのと何ら変わりがないのです。病気をするには病気をするだけの意味があり、身体に支障があり、見劣りする面がある、ということは、その理由がないとおかしいのです。それをただ災難・不幸・不公平とだけ思って、何かでとり返すというだけなら、あなたの生き方は単に損失をとりもどしたにすぎません。このようなハンディキャップが、自分を向上させるための指針であるとみるところに面白さがあるのではないでしょうか。それをはっきり自覚するために体操があるという考え方をもたれてはどうでしょうか』

体操を始める動機はなんでも良いと思っています。

より健康になるため、今ある苦痛を取り除くため、外見的な美容のため。

それでも、続けていくうちに、体操によって、本当の自分を見つめ、その人生を有意義なものにできたらと思うのです。

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