【養生ブログ】矛盾を抱えて生きる

食事について、運動について、あらゆる生活習慣について、なにかにつけて短所ばかりに目をつけて、批判ばかりしている。

ここまでくると、その人の内に募る「満たされない思い」をひしひしと感じてしまう。

他を貶めることで、自分の優位性をたしかめている。

それによって一時的に満たされた感じがするのだろうか。

「いい加減」に物事を軽やかに受け止められたらどんなに楽だろう。

そうもいかない、過去のつらい体験があるのかもしれない。

人一倍勉強して、努力している。

それを隠さず、虚勢を張るものだから、鼻持ちならない人になってしまっている。

悪意はない、ただ不器用さが愛嬌にならず、ますます人を遠ざけ、周囲を敵ばかりにしてつらそうなのだ。

もちろん正論というものはある。

だけど、それだけでは解決しないのが現実で、世を捨て山ごもりでもして、孤高に清廉潔白の「聖」そのもので生きていくのならばまだしも、社会の一員として生かされ、多様性のある「俗」世間で生きていくときに、その信念の強さが仇となる場合もある。

「正しさ」が巡り巡って自分に向かう刃となる。

善悪、正誤、真贋、優劣。

人は賢くなるとジャッジがやまない。

ままならない現実に、他者を傷つけ、なにより自分を傷つけていることも気づかずに。

誰しも心の奥底に「恐れ」がある。

意識にものぼらないその「恐れ」に突き動かされている。

「死の恐れ」と「生の執着」は表裏一体で、悟らない限り、誰だって迷いの中にある。

こうして僕がこの文章を書いているのも、その人に自分の心が映し出されていたわけで、それに敏感に反応して、まさに批判的な筆致となって、翻って自分に言い聞かせている面もある。

健康法はあっていい、信じる方法もあっていい、ただ「方向性」は定めておくようにしたい。

自分にやさしく、人にもやさしく、そして世界にもやさしく。

「不完全」でいい。

むしろ「不完全」だからいい。

経験し成長することを目的に生まれた「不完全」な人間が、支えあうことを余儀なくされている、この「社会」に生きている限りは。

コメントをどうぞ